見所より見るところの風姿は我が離見也

この言葉は世阿弥が著した能楽論書「花鏡」に出てきます。

意味は、演者は演じている自分とは別に、演じている自分自身を批評できる視点を持つ必要がある。演技に熱を入れつつも、その芝居全体を冷静に見ることのできる自分でなければならない、ということだそうです。

社会に出て広告会社に就職して、社内の適性検査を経て配属されたのはクリエーティブという部署でした。正直がっかりでした。広告会社で花形といえばやっぱり営業。研修中に営業にいた時はすごく楽しかったし面白かったのです。だからぼくも営業の先輩のスーパーマン的な活躍にあこがけていたのですが。。。それに当時はバブルということもあったのかもしれないですが、営業の人達はみんなイタリア製のスーツに身を包み、次々と降り注いでくる難題を華麗に解決していくのです。

あるときなんか、お得意から「約束と違うじゃないか!」と詰められたとき「はい、約束はしましたが守るとは言ってません!」と切り返した先輩がいました。その場にいた全員が下を向いちゃいましたけど。応酬話法という言葉を覚えたのもこの頃で、とにかく営業の部署での経験は短い期間でしたけどとても勉強になったのです。

その一方、制作です。みんな出社してくるのは夕方くらい。なぜか徳利のセーターを皆着ていて、プロデューサー系の人たちは着もしないセーターを肩からかけています。ナニコノヒトタチ?

その時にぼくの指導社員となった方から教えていただいたのがこの花鏡という本でした。読みなさい、と、いうことだったので読んだのですがそもそもが古典芸能になんか興味がないのでよくわかりません。あまりにもわからないので歌舞伎座の一幕見をしょっちゅう観に行ってはなんとか知ろうとしました。

なんとなくこの本を読めといった先輩の意図がわかり始めたのは先輩が退社したあとでした。

「離見の見」という視点は熱くクールであれということなのかなと思ったのです。われわれは広告会社なので広告のつくり手でもあるのですが、自分たちのつくった広告に溺れるな、生活者の視点や気持ちを忘れるな、主役は生活者でありその立場に立って見直しなさいということなのかなと感じたのです。自分たちつくり手が気持ちの良いモノが必ずしも広告の受け手にとって気持ち良いとは限らないぞと。

ともすればカッコイイ広告、カッコイイ写真に洒落たコピー。そういうのが求められていた、と、いうか、そういうものをつくるのがクリエイターだみたいな風潮も当時はありました。いわゆる賞狙いってやつです。おしゃれで美味しいものを食べ、洒落たカフェで打ち合わせをし、派手に遊ぶ。でもね、大抵の商品にとって、特に大量消費財などは、梅雨時のぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗って毎日通勤している人たちこそがお客さんなわけです。その時に電車の中で目にする広告。そこに共感はあるのか?という視点を常に忘れたはいけないよ、と、そういう教訓を教えていただいたのだと思います。

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