画廊への経緯
自分は千葉県の市川市、菅野で生まれました。文化幼稚園から八幡小、三中へと進み、まあ、この辺りの子供としては妥当に育っていったともいえます。ハタビルで遊び、コルトンが沼地だった頃はザリガニを獲っていました。
結婚すると実家を出て別の住まいを持ったのですが、両親が他界し、しばらくはそのままになっていた菅野の実家ですが、解体して更地にするにも随分な費用が必要だとわかりました。
それで実家をどうしたものかなと思っていたのです。
はじめは本八幡界隈のワルイ奴らが溜まれるようなバーにでもしようかなと思っていたのですが、いざ調べてみると菅野の辺りは第一種低層住居専用地域ということで深夜22時を過ぎての飲食店営業の許可は難しいとのことでした。
はてさて、と、思っていたときにふと思いついたのが画廊でした。もともと画家をプロデュースという途方も無いことをゼロから始めていて、ホームページをつくったり、ネットショップを開設したりとしていたのですが、これからの時代、実店舗も必要だろうとの思いつきです。
しかし、そこからが大変です。兄弟もいないので自分ひとりでやるしかありません。まずは衣類などを片付け、引き取ってもらえるレコード、本、着物など些少でもお金に変えられるものは変えました。そして持つべきものは地元の友達。小、中と一緒だった古道具を扱う小林商店の小林くんに引き取れるものがないか来てもらったり、Twitterで知り合った本八幡botに片付けを手伝ってもらったり、しくしくと週に一度は実家の整理へ心を砕いていきました。
物を捨てるのも大変で、というのはお金が必要なのです。ゴミ袋も買わなければならないし、大型ごみは処理券を買って引き取ってもらう。なんとか安く済まそうと、バラバラにできるものは、ばらしてクリーンセンターへ持っていく。
家の前でそんなことをやっていると近所のおばちゃんたちが声をかけてくれます。大変ね〜、残されたものがやるしかないのよ、と、慰めてくれるのです。ありがたいですね。母は和紙の人形づくりと絹糸で手まりをつくることを趣味としていたのですが、なにしろ量が多くて、それの始末も話したところ、「お父さんのところへ一つ持っていってあげたら、いつでも触れていられるし」、「人形は供養してくれるところがあるから、少し包んで持っていくといいわよ」と教えていただいたり。
大掃除などでもそうですが、片付けが捗らないのは懐かしいものが出てきてしまって、それを眺めているというのがあります。写真、本、卒業アルバム、手紙、日記など。捨てるのも惜しいし、かといってとっておくのも場所が必要です。
どうにかこうにか、築五十年は経つボロボロの実家ですが、二階をギャラリーとして、一階を近所のおばちゃん連中が溜まれるようなスペースと若干の事務ができるように整えています。
この家、親戚に大工がいて、その方に建ててもらいました。いわゆる工務店などを介さない形で、基礎を作ったら次は棟上げなど、その都度現金を棟梁へ渡して、棟梁が仕入れをしては、少しずつ出来ていった家です。壁も砂壁なのですがヒビ一つはいっておらず、雨漏りもせず(中学生の時にアマチュア無線をやっていて、その時屋根にアンテナを建てるのにぼくが瓦を割り、そのときに雨漏りはありましたが)、自分が言うのもなんですが丈夫な家で、造りはしっかりしていると思っています。
そもそも、90歳になる両親が暮らしていた家ですから、シニアには優しい手も後から加えられています。
そんなところで画廊をしてみようというのですから、艱難辛苦というか風雪と茨の道と言うか、なにかとご近所のお世話になりながらやっていこうという次第です。