田中一村終焉の地、奄美大島。自分の良心を納得させるために描く。

奄美空港から名瀬市に向かう途中にこの家はあります。

1926年、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するけれどほどなくして自主退学。退学理由についてはただ「家業」と記されているのみだったという。学生時代の同期には東山魁夷、橋本明治がいた。黒潮の画家として田中一村の名が世に出たのは彼の没後でした。

一村の作品は奄美パークに併設されている田中一村記念美術館に展示されていますが、この家は彼が晩年を過ごし、またアトリエとしてつかっていたものだそうです。糊口の資として描くのではなく、「自分に正直でありたい」という絵を描くために、この地で大島紬の染色工として働き、生活費と絵の具代を稼ぎ、晩年を奄美で過ごし、奄美をモチーフとした作品を多く残しています。

「お客様の鼻息を覗いながら描くのではなく、自分が描きたいと思うものが一枚でも描ければ満足であり、例えその作品が最後の一枚だとして世間からなんと評されようとも自分は満足である」という彼の言葉が心に残ります。

田中一村は1977年9月12日、奄美大島名瀬市郊外の自宅で絶命しているところを発見されました。倒れたのは前日、夕食の準備をしている時。心不全だったらしい。台所の床には刻んだ野菜の入ったボールが転がっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期でした。

奄美の地を訪れ、その時初めて田中一村の絵を見て、彼の終焉の家を見に行きました。亜熱帯気候の奄美大島は光が強く空気も透明感があり澄んでいます。その極彩色の風景の中にあっても、一村の絵は色に溺れることなく、独自の、自分にしか見えない景色を描いているように感じました。

田中一村は明治41年、栃木に生まれました。

7歳の時に児童画で天皇賞を受賞し、彫刻家の父は幼い彼の画才を見抜き「米邨」という画号を与えた。一村はその後も絵の道を歩み、17歳の時「全国美術家名鑑」に名を連ねます。その時代、日本画、洋画を通じて齢十代で名鑑に名があるのは彼だけであったといいます。翌年には東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。しかし一村は僅か3ヶ月で退学。病人である父の看護と自らも病気に罹ったというのが理由であったようです。

その後、彼は孤高の道を歩み始めました。

一村の一家は栃木から千葉へ移り住み、彼自身、絵を描いては糊口の資を得、病人の看護を続けます。

「自分の信ずる絵を描いていきたい」と願う一村にとって、パンのために絵を描くことは相当な苦痛であったようです。

一村が当時知人に宛てた手紙にはこう記されています。

「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。その当時の作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめてくれる人もだいぶありますが、その時せっかく芽生えた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました。」

自身の後援者や画壇との度重なる意見の食い違いで衝突を繰り返した彼は47歳の時、四国、九州へスケッチ旅行に出かけます。

そして南国の自然に魅せられた一村は鹿児島、種子島、屋久島、トカラ列島まで見て廻ります。そのスケッチ旅行から3年、一村は千葉の家を売り払い、最大の絵の理解者であった姉を残し、老いとこの先いつまで絵筆を持ち続けられるのかという不安を抱え、単身、奄美大島に移り住むことにしたそうです。

以来、彼は借家でひとり暮らしをしながら大島紬の工場で染色工として働きました。歳月をかけて貯金をし、蓄えの尽きるまで何年も絵を描き続け、金が尽きたら再び働くという生活を続けていきます。せめて野菜だけでも自給自足をと畑を耕し、人は一日にバケツ一杯の野菜に酢をかけて食べていれば大丈夫と菜食主義を貫き、月の生活費を見積もって6500円、そして服飾費で1000円を節約、これが奄美での一村の生活でした。

当時奄美で彼が使っていた落款には「餓驅我」(餓え我を驅る)と彫られていました。

「紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最期の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚に二ヶ月位かゝり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから。千葉時代を思い出します。常に飢に驅り立てられて心にもない繪をパンのために描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから。そして、その繪は全部、又奄美に持ち帰るつもりでもあるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います。」

田中一村、享年六十九歳でした。