雨を感じる人もいるし、ただ濡れるだけのやつらもいる。

画廊の方も絵が入り、やっと画廊らしくなってきたところで開いていることを示す看板が必要となりました。

最初は安東に描いてもらおうと整えていたのですが、画廊の表札を描いてくれた方がいて、その人に頼んだらいいんじゃないのと安東から言われたんですね。ふーん、なるほど。なんでもかんでも安東にやってもらうのは、それはそれで間違いがないのですが、確かに面白くない。安東もその表札を見て、この人は描けると思ったんだと思います。若い才能を見つけるのも画廊としての使命、というわけでお願いして描いていただきました。

当日は汚れてもいい格好でお越しいただき、安東から簡単なアドバイスの後に一気に描いていきます。

この方、普段はイラストなどを描かれているそうで、飽きずに描き続けられるというのは才能の一つだと思っています。つまり、苦労しているな、努力しているなと感じてやっていることは上手くできないということです。人生の価値は自分の石が宝石であれ砂利であれ、磨き続けることに意味を見いだせるかどうかでしょう。

描くことに限らず、楽器の練習や文章などなんでもそればっかり一心不乱に、時間もお金もかけて追求してしまうというのは体がそれを求めているんだと感じています。絵に関して言えば、描きたい気持ちだけじゃ描けないし、描きたい気持ちがなければ描けない。表現をする技術と知識に強い希求、不屈の心を持って画家は完成まで描いていくんだと思います。

描くこと、表現することについて、岡倉天心は「名月と題して名月を描くな」と言い、ゴッホは「美しい景色を見つけるんじゃない、景色の中に美しさを見つけるんだ」と言っています。

なにを美しいと感じるか。

“Some people feel the rain. Others just get wet.” とはボブ・マーレーの言葉です。雨の音を聞いてショパンのような作曲をするのか、濡れるから嫌だなと思うのかは人それぞれ。

美は鑑賞者の中にこそ存在し、それを識ることが発見であり、創造性なのです。つまり、美は鑑賞者次第。芸術をもって、いまの自分を識る手がかりとなります。

心の底から惚れ込んだ美は自分の目の前でだけ煌めいていればいい。芸術は理解する者、感じる者のためにあります。

この日、若い作家と安東はまるで風と風のすれ違いでした。風同士はぶつからず交わらず、ただ猛烈な勢いですれ違ったのです。そこには新しい風の接線が生まれました。